花霧妖夢03:ステージ1 従者双人 ―― 暗香疎影
嵐の如くに吹き乱れ。
雪が降る。好きに降る。
魔白の女神もいまこそは。
余りに長き、冬空の。
猛るは何故と思い果て。
果て無き先への出立せん。
銀髪瀟洒、ハテナのメイド。
通り路、軽く氷精、こらしめて。
進みて涼むは極寒地獄。
道無き道と、導を尋ねん。
ハテ。
姫と従者と花死人。
どこに行ったと尋ねれど。
教えるものなき、初春の真冬。
主役は誰ぞ、文句を吐けども応えなく、白玉団子も没収と――
******
「黒幕?」
「そう、しろくま」
「渋いチョイスを待つ人なのね」
「うぅ、あたくしを選んでくれる紳士様は何処にいらっしゃるのでしょう……よよょ」
「泣き崩れるな」
雪の中、向かい合うのは二人。
零下をはるかに越え、あるいは無熱にまで達しようかという凍気。吐息さえ氷と化す真っ只中、一びゅうびゅうと鳴り響く吹雪は、もはや死神の釜に他ならない。
その中でさえ軽口を叩くのは、狂気のなせる技か、それとも、人間であろうとする意志か。
一人は瀟洒なメイド。麗銀のおさげ髪を凍嵐に遊ばせ、しかし微塵も凍らせることなく、笑顔さえ浮かべている。首許には濃紺のマフラーが、防寒というよりはファッションめいた軽さで結わえられている。瞳は、世界を鏡に鑑みたように、白い。
真向かいの反対には、精霊。青と白で凍り付いた服装に、これまた白く凍り切った肌と瞳と声と髪。胸元の【錨】は、『【怒れ】ば船さえ沈めるよ』という意思表示か、それとも、『【イカ】れて遂には死ぬしかない』と言いたいのか。死の咆哮で、死の彷徨。
「【中華食卓】は、しまいっぱなし?」
メイドは、物怖じせずに声を出した。不快そうに精霊は笑う。
「なるほど、貴女はヒステリー」
「誰が旱魃の話をしてるの?」
「ヒデリー・クィーンの自慢話を聞きたいわけ?」
「そんなものミザリーでイワザリーでキカザリーよ。しょせん貴女は弱肉強食」
そこで精霊、両手を振り上げ――下ろす。
「暴飲暴食ッ! 13キロの砂糖水!」
まるで爆発のような獰猛さで、雪嵐が奔った。たとえ最高級の防寒具を身に着けていたとしても、その白い炸裂は易々と死を浸透させ、内臓ごと無声の彫像に仕立て上げただろう。周囲の空気は歪んで叫び、氷と雹と低温が悪魔となって踊り狂う。
だが、始まりがあるのなら終りもある。暴虐は数分だけ保って、そののち、夢のようにあっさりと醒けた。
数分前と変わらぬ瀟洒を認め、精霊は軽く笑う。
「汚い話ね。来た甲斐が無いわ」
当たり前の顔で会話を続ける、瀟洒のメイド。
当たり前のように会話を返す、瀟洒のメイト。
「古い音楽隊の話を知っているのね」
「誰が甲州の話をしているのよ。私が聞きたいのは『私は何処。此処は誰』って事」
「つまり貴女の脳髄が行方不明なのね」
「残念。詐注ノ奇術よ」
途端。
何十ものナイフが、精霊の後ろから、洪水のように。
零下の低温を引き裂いて、銀髪瀟洒に操られ、銀のナイフが冬を刺す。
††††††
奇術【ミスディレクション】
††††††
ナイフが刺さっていない場所より、刺さっている場所が多い。精霊は、そんな状態で。
真綿のように、羽よりは重く、他よりは軽い、そんな吐息、メイドの口より落ちて去る。
(これで、挨拶はお仕舞いかしらね?)
瀟洒なメイドには確信していることがあった。冬の気配は相変わらずそのままで、むしろ、剣呑さを多量に含んだ凍気は、Kの零さえ越えようとせんばかりに、冴え、冷え、沈み、重く。
吹雪の轟音さえ裂いて、ちいさな音が、メイドの耳に届く。
凍る音。
凍る音。
凍る音。
ぴし、ぴし、ぴし――崩れる音。
音が最高潮まで達したとき、精霊に刺さっていたナイフは全てが壊れ落ちる。
「……ひどぉーい。これが貴女の礼儀作法ってわけ?」
真っ白の発光体。
それは、女性の姿をしていた。
それは、精霊の姿をしていた。
雪の純粋をすべて集めて押し込んだような、神聖ささえ感じられる【白】が、
冬の霊性をすべて固めて吐き出したような、障壁さえ突き貫き通る【凍】が、
銀髪メイドの前に刹那だけ現れ――
――消える。
そして、まるで同じことをやり返したように、精霊は、前と変わらぬ姿で、戻る。
(高位精霊体。四季の属性を宿したモノ。当たりのようね)
メイドは心臓で僅かだけ笑うと、つとめて冷静な言葉を返す。
「ここは勤務地じゃないしね。ちょっと手間を省いたのよ」
「手間暇かけてよぉ」
精霊は嘘泣きを始める。えぐえぐ、と陳腐にも声で喋りながら、わぁわぁとわめく。
しかしメイドは顔色一つ変えずに。
「時間は無限に有るけど、事件は無駄に待ってくれないから。こう見えても忙しいのよ?」
氷鋼のナイフを取り出し、突きつける。
「教えなさい、【冬の忘れ物】」
そして再び、不快そうな笑い。偽泣きをやめた精霊が、酷薄な声を出す。
「やっぱりヒステリー志向なのね。まだ占う事柄さえ聞いてないわよ」
「狐狗狸さん程度にも当たらないって? 当たり判定は大きいのに?」
気温がさらに下がる。空間裁縫さえ貫く凍気――つまりは殺気――に、メイドは肌の裏側だけ粟立たせる。
凶悪な瞳を垂れ目に隠して、精霊は返答した。
「あんまり人間風情が舐めてると雪に巻くわよ」
(寒いってことは、私が【怖がってる】ってコトか。修行はずっと足りないままねェ)
心中とは真逆に笑い、メイドはさらに挑発する。
「貴女だって【人間風情】と舐めてるでしょうが。お互い様よ」
精霊は、遂に不機嫌を頬にまで表した。ここまで折れない人間は珍しかったのだろう。
「あたくしが言ってるのは、礼儀作法の話。行き先を教えて欲しいなら、もう少しでも下手に出たらどう? 舌で」
(ここが重要ポイントね)
メイドは、もったいぶった手つきでナイフを仕舞い、真っ直ぐに精霊を見つめた。
精霊は驚く。メイドの瞳は、自分のソレよりもはるかに危うい、白銀。
「どんな些細な事でも好いから教えてくれまいか、【ノーザンウィナー】」
声音は、まるで、名剣のごとく蛇がましく、名刀のように凄惨。だが、【誇り】を失ってないゆえか、まるで至雪で清められたかのように心地よく響く。
認めざるを得なかったのだろう、いや、その【認める】ということでさえ楽しく思えたのだろう、精霊は一転して表情を和らげ、【ノーザンウィナー】としての自分を喜んだ。
「分かったわ、【クリスタライズドシルバー】」
そして冬精霊は白い指で先を示した。
「とりあえずは――この方に聞けば良いと思うよ」
この言葉を怪訝に思うまもなく、
「たた、助けてくれ!」
現れたるは、
顔あり手もあり、が、足なし色もなし。早い話が幽かな霊魂。幽霊。
豪奢な金髪を幽霊頭巾で無理に結い上げ、いつものエプロンドレスは真白の単衣。布団から抜け出た忌姿のままに、足だけ混ざって一本釣り。ただ、瞳だけが金色の輝きを失っていない。
(まったく、何の因果よ。この安穏な郷で殺されちゃうなんて!)
なんとかメイドは瀟洒を保ちつつ、金髪の幽霊を指差して、確認する。
「こいつ?」
あたふたと(透けてる)体を動かしながら、幽霊は叫ぶ。
「ここここいつ扱いするな!」
精霊はくすくす笑った。どうやら、半眼になったメイドや、あわてている幽霊が面白かったらしい。
「違うわ。その方は、なんにも分かっちゃ居ないのに巻き込まれてしまった不幸な人間。もう幽霊だけど」
「まったく、透けてるわね。どうしたの? 知り合いの金髪に二股がバレたの?」
(ああ、それならそれで良いかな? 平穏になるし)
などと思いついたのだろう、メイドは急に表情を変える。嬉しそうに笑ったのだ。
涙目で幽霊は叫ぶ。
「ハレバレした顔で云うな!」
「だってあんた、うちの館を荒らすじゃない。物的被害から心的被害まで……門番も図書館司書も本虫様も妹様も、みんなあんたの事でてんてこ舞いのてんこ盛り」
悪びれもせずに幽霊が呟く。
「精神防御値が低いんだよ」
(サンチ? カンチ? もうたっくんなんて呼ぶな?)
そんな言葉が、冬精霊の頭に浮かんだ。久しぶりに【テーブルターニング】の力を使ったからだろう。かの能力は、無意味にキーワードを引き寄せることがある。
「いつか刺されるわよ。ずぶずぶっと」
(それともいま、刺しておこうか? せめて【釘】だけでも)
なんて事をメイドが考え、剣呑に目尻を吊り上げると。
「あーなるほど」
メイドを挫くように、横からのいやらしい笑い声。
「挿しつ挿されつ?」
幽霊は手をひらひらさせ、苦笑を浮かべる。
「そういう事は私を抜きでやってくれ」
ため息一つ。メイドはかぶりを振って頭痛を堪えた。
「当事者はあんたでしょ。あんまりふざけてると鎖して突き出すわよ」
、と。
くるりと向き直って、精霊。
「来るわよ」
にやりと笑い返して、メイド。
「知ってるわ。空間把握ならお手の物、自分の内臓の様に世界を理解している」
精霊の方寸が、その精悍に跳ね上がる。
(まったく、男前ッ!)
顔の形が美しいということだけでは、その恰好良さを説明できはしないだろう。ある一種の崇高さ――まさしく【なにかを覚悟している】ということ――それが、彼女に、戦乙女めいたヴィジョンを纏わせているのだろう。
誰も、あらゆることを、選べはしない。いつだって間違いと正しさの中でさまよい、苦しむ。苦しみの余り、何も選べない事だってある、いや、選べないことを正当化して逃げ込む事のほうが多い。だからこそ決断は貴い。覚悟は、美しい。
虚空へ真っ直ぐに、ナイフを向け、メイドは確認する。
「こいつに訊けばいいのね」
「そうよ。黒幕じゃないけど黒子だし」
ふと、気付いたらしく、振り返って一言。メイドはにやりと、幽霊へ。
「貸し一つ。返しなさいよ?」
◆◆◆◆◆◆
全力で駆けるたる少女、両足で空気を踏みしめ、止まる。
背には大小。長大なる陣太刀、短冴なる長脇差。髪はおかっぱの銀色。
なにより特異なのは、傍に控える同体の魂魄。
「……誰?」
なぜ止まったのか――立ちふさがるメイドを見つけたからだ。
(うわぁ。恰好良い人だ)
おかっぱ銀の瞳は、『世界にはこんな人も居るんだなぁ』という驚きが満ちていた。
それを知ってか知らずか、メイドは、名乗りもせずに言う。
「足は速いみたいね」
「自慢です」
胸を張って、おかっぱ銀は笑った。
それに思わず、メイドも笑う。
「ごめんなさいね。ちょっと、聞きたいことが有るんだけど。時間はきっと取らせちゃうわ」
むぅ、とおかっぱ銀は唸った。
(恰好良いから悪い人じゃないと思う。でも、用事があるから、断らなきゃ、だ)
そのままぺこりと一礼、おかっぱ銀は真っ直ぐに。
「ごめんなさい、急いでるんです、邪魔をしないで下さい」
即座にメイドは返す。
「ジャマーは張ってないわよ」
「じ、じゃまー?」
(なんのことだろう。きっと私の見識が浅いからだろうけど)
目を白黒させているおかっぱ銀に、メイドは追い打つ。
「ジャンバって知ってる?」
ともかく会話を続けようと思ったのか、おかっぱ銀はよくわからない台詞を口にした。
「えきぞちっく?」
と。
すぅ、とメイドは息を吸い、
「『見つめ合ーうーッ! 視線のレィザァビィムでえーッ!』」
歌った。
そしてすぐに笑い、にこやかに言葉をつなぐ。
「失礼。殺し屋はとっくに廃業済みだったわね」
ひゅうひゅうと風が吹いている。
ひょうひょうと服がはためいている。
雪が降り、吹雪の予感が満ち、静かに、寒い。
両手の指では数えられないほどの秒が経過した後、呆然としながらもなんとか銀短髪の少女が言葉を返す。けなげにも。
だが、おかっぱ銀は、自分でも何を言っているのかわからなくなっている。
状況の滅茶苦茶さについていけてないのだ。
ましてや、その、無茶愚茶さを【楽しむ】ような存在に、張り合えないのだ。
「そ、それが【殺し屋】というモノなのですか?」
「【殺し屋】って言うな! 犯して殺すぞ!」
突然いきりたったメイドに、おかっぱ銀は半べその表情を浮かべる。
(こ、この人……理不尽ですよぉ)
メイドはその顔を見て、少しだけ瀟洒に笑い、そして真顔に戻った。
「ま、手っ取り早く行きましょう」
カードが、投げられる。
(え?)
おかっぱ銀は、自分に迫るそのカードを反射的に切り落とし――
「チェック・メイト」
††††††
世界【チェックメイド】
††††††
――同時、何十ものナイフが現れ、おかっぱ銀を襲った。
それは、逃げることのできないような、巧妙さで、彼女に向かっている。
それは、避けることのできないような、多量さで、彼女に向かっている。
『たとえ、どのような防御を行ったとしても無意味』、そんな悪寒さえ予感させる完成された技。
だが。
おかっぱ銀は。
背の剣を、一瞬で、抜く。
そして、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る!
迷わず。
惑わず。
精妙なまま。
正確なまま。
時間さえ敵だというのに、それさえも斬り倒せると言わんばかりに。
実際、時間さえも従わせて。
すべてのナイフは、叩き落される。
おかっぱ銀は荒い息を一息だけ。すぐに言葉を返し。
「この程度で私を屠れるとですか?」
「『とですか?』って何よ『とですか?』って」
驚きを凄絶に編み込んで、メイドは肉食獣の笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆◆
離れて、二人。
幽霊と、精霊。
「驚いたな。あいつの反則技、大量ナイフ瞬間投擲に耐え切るなんて」
興奮した口調で、金髪の幽霊が言う。冬精霊が受ける。
「それどころか、全部を叩き落としたわよ」
(ま、無駄っちゃあ無駄だけどねー)
実際、あのスペルカードは、こけおどしにすぎない。ナイフ自体の攻撃力などたかが知れている。そもそも、刺さりそうなナイフだけを選び、それだけを防御すればいい。大きく躱す事はできないように、たくさん投げつけているだけだなのだから。
だから虚を衝く。
それでも、普通なら、あっさりと無効化される。
(私みたいにね)
だが。
おかっぱ銀は律儀にすべて斬り落した。あたるはずの無いナイフでさえ、神経質に。
(当世の遣り方に詳しくないのかしら?)
首をかしげ、顎に人差し指。冬精霊は考え込む。
「あんたなら分かるだろ」
割り込むように、幽霊の声。
「どんな能力なんだ?」
「んー。あの奇術師と似てるといえば似てる。まったく逆だけど」
【わからない】を大書きされた顔が、精霊にずいと近づく。
「あぁもう寄らないでよ」
「ん、おぅ」
(まったく、コイツも! 人間の癖に、どいつもこいつも)
精霊は、余りの至近距離に赤く引きつった顔を、むりやり両手で撫で戻す。
(まったく、抱き殺されたいってわけ?)
実際、人間に惹かれる【妖】は多い。人間が【妖】に惹かれるより多いのではないだろうか。
その理由は、いまだに分かっていない。ただ、沢山のカップルが生まれ、それと同じ数だけ【離別】が存在するということだけが、真実だった。
軽いため息、あるいは咳払い。挟んで、精霊は続けた。
「世界を操作するか、自分を操作するかってこと」
(そう)
「鏡写しに正反対」
つまり、反転した異界。
「究極まで相似しているのに完璧に別物なのよ」
「ふーん」
(わかったようなわからないような。そもそも、あのメイドの能力も微妙に理解不能だからなぁ)
金髪の幽霊はこめかみをくりくりと押し込んだ。
(ま、いいか。そのうち盗ませて貰えれば)
「見ものね」
「見てる暇なんかないぜ」
「そなの?」
こくり、と首肯して、金髪の幽霊は捨て台詞。
「逃げるぜ逃げるぜ、逃げなきゃ死ぬぜ」
呟きが世界にしみるころには、すでに遁走終了。【ぬすっと】の異名は伊達じゃなし。
「いてらー」
冬精霊は、もう居ない相手へ、気だるげに呟いた。そして、ふと、気付く。
「あれ? あんた、もう死んでるんじゃないの?」
◆◆◆◆◆◆
「言い間違えたのです」
「恥ずかしいからって何十秒も黙らないでよ。話の接ぎ穂が無いわ」
「あぅう。申し訳ないのです」
「私としては、『申し訳』して欲しいところだけど?」
さて、再び、二人の相似。
つまり、これは、二人の従者。
メイドの従者は、鋭い笑みのまま、問いかけ、
「貴女、何をしに来」
「あ!」
千切れる。
双剣士の従者が、すっとんきょうな声を出して、遠くの冬精霊に問いかけたのだ。
「あのあのっ! そこの雪女さん! 私が追いかけてた雉島さんが何処にいるかご存知じゃなかったりしませんか!?」
(雉島?)
そもそも、呼びかけられると思っていなかった観客席の精霊。なにも返せずに首をかしげる。
「野良魔法使いなら逃げたわよ」
ので、メイドが返した。
おかっぱ銀、どうやら涙をこぼしている模様。隣の魂魄まで水を流す。
「うぅぅぅぅぅぅぅ……」
(こんな子供が、さっきのアレを凌ぎ、凌ぐ以上の異常をやってのけた?)
『わからない』と言わんばかりにメイドは首を振った。
「……じゃあ、帰るです」
「何処によ」
「此処じゃない何処かです」
揶揄するような口調。
侮蔑するような言葉。
「青い鳥でも探したいの?」
「淡い春なら探しているのです」
しかし、おかっぱ銀は乗らない。いや、【挑発】されているということにすら気付いていない。ゆえに、ぺこりと一礼、きびすを返す。
「それでは、さようなら」
「逃がすと思う?」
まるで手品のように、おかっぱ銀の前へメイドが現れる。
「な、なんか怒ってたりしてますか」
ふ、と瀟洒に笑顔。
「私の感情に関係なく、私は自分に与えられた命令を遂げなければいけないのよ」
気障ったらしいメイドに、精霊がくすくす笑う。
「されてないくせにー」
「される前にやるのが正しいメイ道」
「ぐっ……!」
(観客の私にまでツッコミを入れないでよ、もう)
心の中だけで冬精霊はうめく。さらに突っ込まれることを恐れて。
「貴女も従者の方ですか?」
おかっぱ銀、双剣士の従者は、すぐ目の前のメイドを見上げ、問うた。
「メイド長な方ですよ」
その言葉に、おかっぱ銀は笑う。
「それはそれは――ちょっと親近感を感じます」
「もっと親しくなりましょうよ? 枕元で秘密を分かち合えるぐらいに」
たッ、と。
地面を蹴るように空気を蹴って、おかっぱ銀は飛び退る。顔は赤い。魂魄は真っ赤だ。
『枕元』のあたりで致赤量に達したのか、台詞が言い終わる前には十歩ほど間が空いている。
「ももも申し訳ないのですが、遠慮したく存じ上げます」
「どうして?」
おかっぱ銀の顔が、真っ直ぐになる。
一度もへし折られていない、正しすぎるゆえに歪な、真っ直ぐに。
「私は主君を愛忠しております故」
メイドは。
メイドは、言葉を、失う。
「……」
「あの方が私にとっての最優先事項なのです」
メイドにとってそれは、どこかで見たことのある貌。
メイドにとってそれは、どこかで、そう、どこか遠くで。
(なつかしいわね、本当に)
メイドの顔に浮かんでくるのは、獰猛ではない、優しい笑顔。
「……そうね。失礼な事を言っちゃったわ、断固として訂正します」
「し、失礼だったのですか?」
にこやかに頷き、しかし、メイドは続ける。
「でも、しなくちゃいけないことは――やらなくちゃね」
ただ単純に失望したような顔で、おかっぱ銀はうめく。
「諦めては貰えないのですか?」
複雑な微笑をとどめたままで、メイドは返す。
「明らかにするまでは、無理よ」
「そうですか……」
顔を上げれば、もう、笑顔。
「……なら、全力で逃げます」
「もちろん、総力で追い駆けるわ」
二人の従者は、似た、似ているだけの顔で、笑いあう。
「二百由旬すら一閃で走りましょう」
「無量大数の果てに貴女を捕まえるわ」
そして。
『では、御免』
この世界に於いても稀有であろう速度で、おかっぱ銀は走り出す。
そんな特殊とまったく劣らない速さで、瀟洒なメイドは追い駆ける。
残るは、たった一人の冬精霊。
「まったく、元気ね……」
彼女の顔に浮かぶ、静かで、透明な色。
いつだって彼女は一人なのだ。
だから惚れっぽい。
「これで、冬も終わりかぁ」
【冬の女王】は、さみしそうに詞を詩した。
「『辿り着けば其処は終わりの始まり』――」
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